何かで泣ける感受性がうらやましい。俺も泣けるか試してみよう。
よくいるよね、スポーツバーとかで日本代表が勝つと、まるで自分が勝ったかのように大はしゃぎする人。
渋谷の交差点で見知らぬ人々とハイタッチを交わし、歓声をあげながら楽しそうにしている若者。
時には負けると自分が負けたかのようにワンワンと泣きだす人だっている。悔しいです!とかインタビューで答える観客。選手が悔しいって言うなら分かるが、あんたらが悔しいんかい!と突っ込みを入れたくなる。
他人を頑張って応援し、勝ち負けに一喜一憂する姿に、人に頑張れ言うよりも、おまえらがもっと頑張れ、と冷めた気持ちを感じているのと同時に、ただただ、うらやましい、と思うことがある。
なんでそんなに入れ込むことができるのか。盛り上がることができるのか。
感情移入ってやつが俺には苦手なようだ。
ドラマでも病弱な妹や彼女が、残り少ない時間を精一杯生きて、好きな人に囲まれて死んだりするシーンなんかあるけど、俺には悲しい感情が出てこない。
ちょっと不謹慎な話だが、小林麻央の訃報と海老蔵の会見を見て、俺の横にいた嫁は号泣していた。それを見て、
え?まじ?
と驚いた。だって自分にとっては、他のニュースと同じく、フーンって感じだったから。何の感情も出てこなかった。
俺はどこかぶっ壊れているのだろうか?
なんで泣けるのだろう。なんで物事に熱くなれるのだろう。自分とは関係のないものに。
よく分からない。
もちろん、例えばW杯の日本代表の試合は応援する。でも、いい試合が見たいなーぐらいにしか思ってなく、負けてもやっぱりなーとか、しょぼいなーとか、まあまあ頑張ったなーぐらいしか思わない。
泣いたり、ストレスが溜まったりするほどの想いはない。
思えば、身内の葬儀でも泣いたりしたことってない。と言っても、そんなに距離が近かった親戚でもないのだけど。
でも泣く人は泣く。
だから、自分はおかしくなんかない、感受性だって人並みに持ってるんだ!という願いにも似た気持ちで、それを確認しようと考えた。
アニオタが考えることなんて、大したことはない。泣けると言われるアニメを見たり、ラノベを読んだりすればいいんじゃないかと単純な思いつき。
目標は泣くこと。
無理やりでも感情移入してみる。
1.あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。
結論から言うと、余裕で泣けましたw
頑張って感情移入した感はあるけれど、見るのは二度目だけど、やっぱりいいお話だなーと感動。
最終話は涙が流れ落ちる程ではないが、眼尻に涙が溜まり、それを拭うぐらいにはなった。
めんまの
「めんまね、もっとみんなといっしょにいたい!遊びたいよ。。。」
「だから、生まれ変わりする!みんなと一緒・・・だけど・・・」
「だからじんたん!お別れしたよ、だから!」
というシーンが一番グッときた。
しばらくブルーな気持ちにもなれたので、自分がまったく冷酷な感情をしかない魔物、ということはなさそうだ。
一安心。
2.プラスティック・メモリーズ
これもね、泣かせるアニメだと分かっているんだ。だってアンドロイド「ギフティア」の寿命は81,920時間。そして主人公のパートナーであるアイラもギフティア、という話になったとき、絶対最終回、お別れシーンじゃん!とか思ったし。
でもね、泣いたw
アイラのキャラに親しみが持てたこと、またツカサとの距離がちょっとずつ近づいていく純愛ストーリーに感動した。
せっかく恋人同士になれたのに!これからじゃないか!なんて感情移入もしちゃってた。
初めてツカサと偶然会ったとき、自分の境遇に涙を流してたアイラなのに、最後はとっても晴れやかな笑顔で終わりを迎えた。
あんなに怖がって、人との接触をできるだけ控えていたのに。
それを思うだけで涙が出ないわけがないw
でもちょっとだけどね。ほんのちょっと。
物語自体が面白かったのも、成功 = 涙を流せた要因だね。
最後に
ということで、感情が壊れているわけでもなく、ちょっぴりではあるがアニメで泣くことができた。
俺にとってカギになるのは、その人、出来事にどれだけ思い入れがあるか、ということ。
アニメって登場人物の感情が見れるから、感情移入しやすいのかもしれない。
それでも、他の人に比べたら、俺は感情がやや希薄かもしれない。例えばシュタインズゲートって最高のアニメだけど、あれで泣いたりなんてできないし。どこで泣くの?ってレベル。
だから俺は感受性をもっと磨きたいんだ。感受性豊かな人間になりたいんだ。
なんか人造人間が心を欲しているのと同じに見えてきたw
※追記
この記事を書いた翌日にシュタインズゲートを見直したら、普通に泣けましたw
まゆりを助けるためにβ世界線に行くと、紅莉栖が死ぬ、という無慈悲な現実。今まで2人で知恵を出し合ってここまでやってきたのに、と思ったら不思議と泣けてきました
ということで、Googleで「泣ける ラノベ」と検索をかけ、引っかかったラノベをいくつか買ってみました。泣く練習をすれば、泣く感受性がもっと身につくのではないか、という安直な考えから。
「LAST KISS」佐藤ケイ
「そして、君のいない九月がくる」天沢夏月
「三日間の幸福」三好槌
「あの夏、最後に見た打ち上げ花火は」助供珠樹
ほとんどが登場人物の誰かが死ぬ展開のような気がする。。。そして最後の「俺ガイル」ってちょっとジャンル違くないか?という突っ込みもありつつ。
この本を読み終えたとき、もう一段階、人間的にパワーアップした俺がいることを夢見て、今日はブログを終えよう。
見知らぬ人とハイタッチが出来る日はくるのだろうか?
望んでないけど。
「100万回生きたねこ」を読んでみた(ネタバレあり)
土曜は予定が全くなかったので、ほとんど一日引きこもっていたんだけど、コーラ飲まなきゃ誰彼かまわず襲っちゃうゾ!病が発症して、自宅から2分のところにある自動販売機に行こうと重い腰をあげた。
家を出ると、一匹のトラネコがのんびりとあくびをしながら顔を足で掻いており、何とも穏やかな一日だと実感。脳内妄想でポロリな欲を満たしながら、徒歩2分のところにある自動販売機へと向かう。
自分は潔癖なところがあるのか、それとも単なるチキンなのか、自動販売機がちょっと怖い。だって釣銭や商品がでてくるところにゴキブリとかクモとかいたらどうしようとか思うだけで、失禁・脱糞が止まらない。ってかもう半分ぐらいでてる。おむつをしてきて良かった。
んで目的の物を買って、脳内妄想で会社を燃やし、上司をこん棒でぶっ叩いていた帰り道、先程あくびをしていた猫がのんびりとこちらへと向かってきた。何か足取りがおぼつかない、というか、車線にちょっとはみ出していて、不安がよぎった。
案の定、足か尻尾を車に踏まれ、小刻みにジャンプしながら、のたうちまわる。こんなの見させられた日には気分はレイニーブルー。お尻に氷を入れた時のような、徳永のか細い声が僕の中でこだまする。
そうだ、そういえば「100万回生きたねこ」って有名だけど、読んだことないな。どんなもんなのか図書館で借りてみよう、といきなり天啓のようなものが舞い降りた。僕の脳内構造はいったいどうなっているんだろう。
時刻は16時45分。近くの図書館兼公民館の閉館は17時。急いで自転車にまたがり、その場所へと向かった。時間には間に合ったものの、わがはいは37歳。絵本を借りるには若干の抵抗がある。
ちょっと恥ずかしくて経済学のコーナーで5分程固まる。そうだ、少女漫画を買うときと同じように、まともな本とサンドウィッチすればいいんじゃないか、と考えて、「大人の経済学常識」「働く人の夢」を両サイドにはさんで、おばちゃんのいるカウンターに行った。
よくよく考えたら、これから社会復帰します的な組み合わせになってしまい、余計恥ずかしくなったが、もう閉館間近。残された選択肢はない。
おばちゃん、改めクソBBAが一言も発せず、ただ僕に本を突き返してくる。愛想のかけらもない。陰毛を見るような目で見やがって。借りる本に思うところでもあったのか。アフロみたいな髪型しやがってYO!
読んだ感想なんだけど、正直ウルッと来た。よかったなー猫よ。ずっと愛することを知らずに100万回も残酷な殺され方をしてきて、とっても不幸!とか思っていたけど、自分と同じような雰囲気の白ネコにフォーリンラブ。一緒にずっと生きていたいと思える相手にボーイミーツガール。
でもやはり寿命には勝てず、白ネコは天寿を全うする。今まで泣いたことのなかったトラネコはその時初めて泣くんだよね。そして100万回泣いた後、死んでしまって、生き返ることはなかった、で終わる。
この物語には人によって解釈が違う。白ねこはトラネコに興味がなかったとか、かなしいお話だとか、「解脱」の話だとか。
自分の印象としては、誰かを愛するために人は生きるんだ、ということがこの作者が言いたかったことなんじゃないかと思う。ってか、どこかにそんなコメントが載ってた。だからパクった。
白ネコはトラネコの事なんて興味なかった、って意見については否定したい。だって子供たちが巣立ってりっぱな野良猫になっていったとき、のどをゴロゴロならした、って表現がでてくるんだけど、基本的には安心しているときとか幸せなときに喉を鳴らすから。目線はトラネコに一度も合っていないけど、背表紙では2匹が寄り添って同じ方向へと向いている。ってか、どこかにそんなコメントが載ってた。だからパクった。でもそうあってほしい!
何故生き返らなかったのか。それは天寿を全うしたから。未練がなくなったからではないのか。ってか、どこかにそんなコメントが載ってた。だからパクった。でもそうあってほしい!
僕としては、この物語はハッピーエンドなのです。愛することを知らないで生きてきた猫が愛することを知り、本当の人生を生き、天寿を全うした、そういう話なのかなと。
色んな感想を見てたらいつの間にか1時間も経ってしまった。
今日は高橋し〇う子にしよう。
おっさん一人体験記 ~パラグライダー 前編~
晴れ渡る空、心地よい気温、そして目の前にそびえたつ富士山。近頃は雨ばかりの日々だったが、この日は雲ひとつない青空。絶好のパラグライダー日和だ。
やったことなんて一回もない。ましてやこの日を狙ったわけでもない。先月から有休を使って、今までやったことないものをやってみよう、ただそれだけ。その時の勢いで予約をし、日が経つにつれて、楽しみな気持ちのなかに憂鬱な気分が入り混じる。
そもそもパラグライダーなんて一人で体験するものじゃない、という純情な感情が1/3程芽生えだす。若い女性ならともかく、こちとら30後半のおっさんだ。白髪が最近目立ってきて動揺している年頃。本当に行ってもいいものかと、段々と不安になってくる。
僕が予約したのは、標高約1000mぐらいからのタンデム(二人乗り)と、小さい坂から一人で飛んでみるものの体験セット。どうせ他の参加者と混じるに違いない。そしておっさん一人は浮くんだろう。不安で皮脂も浮いてきた。
普段、何事も人の目を気にしないように心掛けているのだが、今回はかなり気になる。初めての分野だからだろうか。音楽のライブや外食などは全然気にならないのに。一時間半も早く目的地に着いたので、やることがなく、なおさら不安が募る。
講師が女性だったら気まずいな。でもおっさんも嫌だな。やっぱり若い女性がいいな。でも会話が続く自信がないな。舐めまわすように見てしまうかも。そんなことを悶々と考えている僕は会話が苦手だ。仕事の話だったら全然苦にならないのに、プライベートで例えば2人きりになったらどんな会話をすればいいのか、困ってしまう。
いや、ただ会話するだけならいいのだが、こんな話をしてても相手は楽しくないのでは?とか、うまく会話をまわせてない気がするな、そんな思いが段々しんどくさせるのだ。
それは態度にも表れる。その人と目を合わせないとか。そうすると、相手にも伝わるようで、やはり会話がもりあがらない。1分ぐらいだったら大丈夫なんだけど。ウルトラマンより早く、カラータイマーが鳴り響くのだ。これ以上は会話が持ちません、ってね。
それでもそこで留まっていたら、やりたいことがいつまでもできない。だから思い切って飛び込むしかないのだ。荒波だけど。周りはその波が穏やかだと感じているかもしれないが、自分にとっては荒波だ。イメトレの中での僕は溺れているばかり。
そうこう考えているうちに時間になってしまった。勇気を振り絞り、その施設に入ると、そこではおっさんが一人、せわしなく電話をしている。会話が終わるまで、おっさんの視界に入らないようにしてスタンバっていた。チキンな僕。
電話が終わり、タイミング良く話しかけると、とても感じのいいおっさんで、「昨日も明日も雨だからラッキーですよ~」とか「絶対楽しいですよ~」などニコニコしながら応対してくれる。何となくハードルが下がってきたような気がする。
書類を書いたり、パラグライダー体験のビデオを見た後、いよいよ誰かが迎えに来るのかな?と思いきや、目的地までは車で向かうらしい。もらった地図を片手に10分ぐらいの距離を走ると、草原みたいな広々とした場所についた。
おっさんがいた施設には誰一人として客がいなかったのに、ここには30台ぐらいの車が駐車されている。上を見上げると、いくつものパラグライダーが空を舞っている。
ちょっと恥ずかしさがありつつも、受付のおっさんに書類を渡す。この場所はパラグライダーの着陸地点であって、飛ぶ場所には車でさらに上へとあがらなければいけない。
けもの道のような狭い車道をバンで走る。対向車が来たら、対応できないような道で、途中がけ崩れした形跡を見てビビりながらも、目的地へと到着した。車内では自分一人とインストラクターと運転手の3人。運転手は気さくな方だったが、インストラクターの方は自分と話す気がなく、しきりに運転手に話しかけていた。僕と同じ人見知りなのだろうか。何も話していないのに嫌われた?僕がおっさんだからか!?
車を降りてしばらくすると、その人見知りのインストラクターがようやくこちらに向けて話しかけてきた。「体でかいな!何キロ!?」もしかして体重オーバー?なんて思ったが、そういうことではなく、体が大きい人用のパラグライダーを用意するためらしい。20kg間隔ぐらいでパラグライダーはサイズを変えた方が、思うように飛べるのだそうだ。
あと、やはり男性一人で来る人はあまりいないそうで、この言葉を聞いてからしばらくは動揺してた。気分はレイニーブルー。やっぱりそんな目で見られていたのか。
ふき流しで風向きを読み、向かい風の時に飛ぶといいらしく、しばらく風待ちだった。5分後、今がチャンスだ!と焦るおっさんインストラクター。と心の準備もままならないまま、いきなり飛ぶことに。飛ぶとなって、ようやく見た下はとんでもない高さ。めっちゃ怖い。
とっさにパラグライダーの死亡率を頭の中ではじき出すが、そんな計算はしたことがないので、解が分からない。でもニュースでやらないし、多分大丈夫なんだろう。インストラクターのおっさんの掛け声で、今年37歳、80kgのおっさん(僕)が駆け出すと、足が地面から離れだした。めっちゃ怖い。
人間、飛んでしまうと後はどうとでもなれ、という気持ちになるものだ。宙に浮いてからは、落ちるかもしれない怖さよりも、風に流されて景色が歪み、船酔いのような感じになってくる恐怖のほうが勝ってくる。
正直、あと5分飛んでいたら、その場でリバースしていただろう。それぐらい目がまわった。施設では、よっぽど乗り物酔いする人でなければ大丈夫、例えば新幹線に酔うぐらい、なんて言っていたので、楽勝だと思っていたのに。よっぽどの部類だった自分が憎い。
というわけで景色を楽しめるわけでもなく、おっさんが何か説明していたが、それどころでもなく、ただただ、早く降ろしてほしいと心の底から願っていた。今年一番、願った。
カメラで何枚か撮ったけど、正直覚えていない。フラフラする頭と格闘しながら、近くにある道の駅にやっとこさたどり着き、トイレでリバース。午後からは一人での体験コースが待っている。帰りたい気持ちでいっぱいだが、これも何かの思い出になるだろう、そうポジティブにとらえてみた。
体力勝負になりそうだが、もちろん食欲はわかない。仕方がなく食べやすそうな野菜スティックとお茶を買い、胃に流し込むと、午後に備えて車内で仮眠をとるのであった。
後編に続く
秋葉原って最高だよね!!
特に何を買うわけでもないが、ちょくちょく行きたくなる場所だ。なんてったって活気がある。
漫画・ゲーム・アイドル・PC・電気パーツなど、様々なものが展開しているけど、見ているだけで楽しくなってくるんだよね。
たまに掘り出し物とかあって、つい衝動買いをしてしまうほど、刺激をもらえる場所ってのは、自分にとっては、ここしかない。
だから、暇なときは何か得るものがないかと来てしまう。
PC関連もあきばおーとか面白くて便利なグッズがあって、探すのが本当に面白いし、漫画・ゲームも普段ネットで情報集めてもあまり興味がでないけど、よく建物にでっかい広告が貼ってあるのとか見ると、一度見てみよう、やってみようと自然と興味が湧く。
これってとても不思議。
ある意味、自分にとってのパワースポットになっているようだ。
大体、お昼すぎに来て、ケバブを食べ、フラフラしてから2~3時間ぐらいで帰ってしまうけど、毎回、何かしら得るものがあるのは非常にありがたい。
秋葉原は肉の聖地としても有名。
特に人気なのが1ポンドステーキが食べられるHERO'S。リーズナブルで味もおいしい。秋葉原に行った思い出づくりにもなる場所だ。
ブックオフが非常にでかいのも魅力的。
本とゲームをこよなく愛する俺にとって、ブックオフめぐりは欠かせない。秋葉原は1フロア毎は狭く感じるが、アイテム数はかなりの量をほこっている。秋葉原に行ったときは、必ず寄ることがお決まりになっている。
以前にもブログに書いたが、一人で入るのはどうにも敷居が高く感じ、入口の前を行ったり来たり。勇気を出して入ったのを今でもよく覚えている。店員と若干しかおしゃべりできなかったが、カフェラテに絵を描いてもらったり、アニメの話ができたのは良い思い出だ。
VRを無料で体験させてもらったこともある。
アイドルが歌っているのが360度の至近距離で見れるのには驚いたし、コントローラーがサイリウムに見えるのがとっても斬新だった。
ただ車酔いの激しい自分には、VRはちょっとしんどいってこともよく分かったけど。あと、普通の眼鏡をかけてると、眼鏡が鼻に食い込んで痛かった。
普段は、ツイッターでAKIBA PC HOTLINEってアカウントをフォローしている。PC関連のセールとか、秋葉原界隈のお得な情報を流してくれるので、こんな商品が発売されたんだ~とか、とっても新鮮な気持ちになる。
スティックPCなんて見たとき、とっても驚いたな~。TVとキーボードがあればどこでもPC替わりになるんだもんね。便利な世の中になったもんだと感心したもんだ。
その流れからアマゾンFirestickを知り、買ってみたら、とっても便利だった。今では大画面のきれいな画質でアニメやドラマを見れる、大のお気に入りとなっている。
シュタインズゲートとか、秋葉原が舞台になっているアニメも多いけど、ここがあの場所か~なんて感慨にふけながら写真を撮るのも楽しい。
うまくまとめられないけど、秋葉原って最高!ってことが言いたいんだ。
当たり前って感覚は、当たり前ではない時の経験がないと分からない
いつも当然だと思っているものについて、ありがたいとか感じることって少ないよね。
それが感じられる人ってのは、当たり前ではない時の経験があるか、当たり前だったものがなくなってから初めて分かる。
例えば料理。自分は一人暮らし歴がたった一年しかないけど、料理って面倒くさいし、時間かかるし、本当に嫌い。
その気持ちがあるから、嫁がいつも作ってくれることが本当にありがたく感じる。
ってか嫁そのものがありがたかったりする。
仕事でストレス抱えて帰ってきたとき、愚痴を聞いてくれる存在であったり(嫌がられることもあるが・・・)、外食や旅行に行ったとき、同じ思い出を共有できる存在。
自分は一人が好きだけど、旅行や外食は一人だと味気ない時がある。でも嫁の存在のおかげで、それが楽しいものに変わる。
生まれた時からずっと一緒にいたら、それが当たり前で何にも感じなかっただろうけど、お互いある程度の事なら何でも言える存在ってのは大きいと、今改めて思う。
親も同じ。うちは物心がついたときから、母親しかいなかった。自分が思春期の中学生の頃、明日からあなたのお父さんだからお父さんと呼びなさい、っていきなりどこの誰だか知らない馬の骨を連れてきたときは殺意を覚えた。
同居して初日、信じられないぐらい大音量の鼾が家中に響きわたったとき、うるせーよと怒鳴り、さらに殺意が生まれたのを覚えている。
母親はとっても過干渉で、あれしなさい、これしなさい、公務員になりなさい、大学は行くな、年金なんて払わなくていい、などと自分の選択する権利を奪ってきた。
ことごとく反抗してきたけど、早く家から出たくてしょうがなかった。あまり親との時間を持たないよう、ご飯は自分の部屋で食べていた。
当時付き合っていた嫁と同居することになり、ようやく実家を離れられたが、それから12年も経つと、親のありがたみが少しずつだけど分かってきた。
本当に少しずつだけど。
これは離れていたからこそ分かること。
人との距離感について前回書いたけど、
心理的な距離感が近すぎると、人は苦痛になってくる。
過干渉な母親は、ある意味土足で自分の領域にあがってくるわけで、それが俺には許せなかった。
でも今はそういう機会もなくなって、前よりは普通に話せるようになっている。
生んでくれてありがとうなんて全く思わないけど、母親一人で、3人兄弟を育てるのはとても大変だっただろうとは思う。これは自立して初めてわかること。
生んだからには子供を育てるのは当たり前と思っているが、それを片親だけで実際にやりきるのは本当にすごい。簡単にできることじゃないってようやく分かった。
現在、家があって、車もあって、自由に使えるお金や時間がそれなりにあるのも、本当にありがたいことだ。
自分は大学卒業後、やりたいことが見つからず、ずっと日雇いの派遣バイトをやってきた。薄給だったし、惨めだったし、そのころを思えば本当に今の暮らしはありがたい。
こうやって考えると、今まで辛い思いをして生きてきたけど、同時に今の環境へのありがたみが分かる人間にもなったんだなーと思える。
それはお金では買えないこと。
しんどい人生経験はもう御免だが、苦労は買ってでもしろ、って言葉の意味が何となく分かるようになってきた今日この頃である。
体の疲れが取れない日々が続く・・・
朝、というのはさわやかで、一日の始まりを楽しく過ごそうと思える、気力が充実した状態であるべきだ。食事・睡眠・ストレス軽減・運動・動画探し、そのいずれも十分にしている自覚があるならなおさらである。
なのに、起きた時に口ずさむ最初の一言は「疲れた」が日課となっている。自然と吐息混じりで、なんなら軽くポップな感じで口ずさむのだから、本当に疲れているのだろうと判断できる。
RPGのような体力ゲージがあるのなら俺のHPは1か2であり、宿屋に泊まったのにも関わらず体力が回復していない現状に嫌気がさす。
ドラクエであれば3回はぱふぱふしてもらわないと気がすまない。それがたとえスクール水着のような格好に角の生えた仮面をかぶったゴリゴリのおっさんであってもだ。
肩は激しく凝り、足は走ってもいないのにまるで筋肉痛のようなダルさを伴う。まるで整備されていないゼンマイ式のブリキ人形の如く緩慢な動きは、自分と他人をイラつかせるには十分だ。
職場のラジオ体操時、一人だけ肩をひたすらまわし、周囲と違う体操をしているのも、他人をイラつかせるには十分だ。協調性がない、落ち着きがない、とは小学校の担任のお言葉である。
ふらつき・立ちくらみ・手先足先の冷え、さらには全身の倦怠感は半端なく、やりたいことをやろう、楽しもう、といった気力を簡単に削いでいく。
さながら毒の沼地で歩いているかのようにHPが削られ、「おお!ぷぺいよ!死んでしまうとは情けない!」等と教会のおっさんに言われかねないレベル。
その髭を全部むしり取って鼻の穴奥深くに指を突っ込み、メテオでも食らわせてやろうかと思うが、フースーヤーの如く、すぐガス欠になるため仕方なく温存しておく。
最初は筋トレや走っている頻度が多すぎて疲れが溜まっているのだと思っていた。2日に1回と言えど、40歳になる肉体には無理があったのかもしれない。そう思い、しばらく休んでいるが、全くもって疲労度は変わらない。
土日いずれも家に引きこもって安静にしていても、結果が同じことにショックと苛立ちが募る。髭を剃るのでさえ億劫になり、ボーボーの髭面と、風呂に入っていないことが一目で分かるオイリーな頭髪は、徒歩1分でたどり着くスーパーのレジの店員をドン引きさせ、自分の手前でレジを閉めるんじゃないか、という恐怖が常につきまとう。
食事を減らしているわけでもない。野菜や肉類・炭水化物などを意識してバランスよく取っているつもりだ。湯船にも浸かり、足をマッサージするなど、座り仕事で悪くなりがちな血行にも気を使っている。
気に食わないスタッフへの罵詈雑言や、女性へのボディタッチだって欠かさない。仕事を頼まれれば舌打ちをし、後工程の部署が進捗を確認してくる度に痰を吐く。ストレス防止には致し方ないのである。無念。
やることはやっているのに、だ。
一昨日は朝起きた時に、「だめだ、こりゃ」と唇を分厚くしながらも思い、仕事を休んで一日中安静にしてるはめになった。さらに翌日になっても同じレベルの症状。
こりゃいよいよ呪いの類か。破壊の剣なんて装備していないのに。なんなら、踊り子の服とステテコパンツしか装備していない。いや、実際にはその中にあぶない水着も装備しているけどね。
仕事がたまってしまうので、無理して出勤するもその翌日、つまり昨日は何故か調子が少し良くなったが、今日はまた元通り。最近のラノベか!というぐらいのループ。そろそろ異世界に飛ばされてもおかしくない。スライムに転生したっておかしくない。
病院で調べてもらいたいが、何科に行けばよいのか分からない。午後半休をもらい、とりあえず近くの内科で症状を訴えてみるも、先生も「よく分からない」の一言。
「だめだ、こりゃ」とまたも唇を分厚くするハメになる。さらにはレントゲン結果に異常はなく、血液検査の結果を待つのみとなった。おばちゃん看護師に4本分も血を抜き取られ、さらに精力もまるごと抜き取られたような倦怠感が襲ってくる。
このおばちゃん、サキュバスじゃないだろうな?と勘ぐるも、その姿をあまり想像したくないので心の中で羊を百匹数え心を整える。長谷部ばりに整える。
原因さえ分かれば対処は出来るのだが、いかんせん原因が不明のため、どうすればいいのか分からない。症状から見るに、貧血とか血行障害のような気がするから、普段、不足がちな鉄分を多く取ってみることにした。これでよくなれば万々歳だ。
駄目なら千代の富士ばりに体力の限界を訴えなければならない。ウルフではなくブルドック面だけど。ザブングル並に悔しい気持ちも吐き出さないとならないだろう。
今思えば、急に体重を減らしたあの時期から寝起きにダルさを感じていたのは、運動の疲れではなくて別の要因があったからなのかもしれない。半年も走っているのに、いつも疲れを感じるのはまだまだ体力がついてないからだ君に出会ったこの瞬間を忘れないあの陽だまりの丘でまた2人で夕日をみながら君の作ったサンドウィッチを1/3の純情な感情で食べたいなでももう君はいないしいつもは素通りしてたベンチに座って澱んだ街の景色さえ愛しさに満ちているので手をつないで何でもないようなことがしあわせだとふぬけたことぬかしてんじゃないよまったくあの目の奥が笑っていない元奥さん気持ち悪いんだよでもその表情がみたくて旅サラダ見ちゃうしラッシャー板前が無事息災なのに何故か安堵している僕がいるよ
すみません。少し取り乱しました。
体力がまだついていないからだ、そう思い込んでいたのも気づくのが遅れた原因である。血液検査の結果を見るのが怖い。糖尿病とか甲状腺の病気じゃないことを祈るばかりだ。
P.S.
血液検査の結果が出ました。待合室でちょっとドキドキ。動悸・息切れのほうだけど。どうしよう、来週あたりに脳みそ爆発しますとか、膀胱破裂しますよ去勢しましょう、とか浣腸すれば一発で治りますよ、ぐへへへっ!なんて五郎丸ポーズを変形させた手付きでね、言われるんじゃないかと疑心暗鬼になっていたけど、結果、どこも異常なし。。。
かえって、困った。
対策のしようがない。医者からはダイエットの過労じゃないか、体重を少し戻したほうが良いかもとのお言葉をいただいた。
でも、それだけは嫌なんだよねぇ。今までの苦労が水どころか、血反吐の泡になってしまうわけで。
まずは、朝運動するのをやめてみるかな。
早く治るといいなー。
白髪が増えてきた
あれは小学校の卒業式の朝だっただろうか。人生で初めてドライヤーと整髪料を使い、どぎついセンター分けをしたときから、あれ?自分って髪、薄くね? と思うようになった。鏡の光が当たる角度によっては頭皮が思いっきり見えるその光景に子供ながらショックを受けたものだ。
きっと、乾燥した髪にドライヤーの熱をおもいっきり当て続けたせいに違いない。時間が経てば元通りさ!風呂上がりにふわっと仕上げればあんまり目立たないのだから。たまたまだ。子供の僕はどうにかして理由を見繕い、精神の安定を保とうとしていた。
それ以降、髪は染めない。整髪料はつけない。頭皮は強く洗わない。と無意識に髪をかばうようになり、38歳現在でも髪を染めたことは一度もない。子供の発想で言うならば、志村けんにはなりたくなかった。絶対にあだ名を「だっふんだ」とかにされるし、「志村、後ろ!」とか頭皮を指さされるに違いないし、「だめだ、こりゃ」とか言われんじゃないか。完全な被害妄想だ。でも子供って残酷だからそれぐらいのことはやりかねない、と当時の俺は思ったのだろう。
そうやって、丁寧に丁寧に、温室育ちのトマトのように、過保護に育ててきたのだ。ランニングから帰ったらティモテ。旅行先でもティモテ。股間にもティモテ。山田邦子が真似る薬師丸ひろ子ばりにチャンリンシャンしてた。
結局、38歳になった今でも、髪の毛の本数的にはあの頃となんら変わらない。不安が杞憂に終わったのは嬉しい限りだ。過保護にしたせいか、ただただ元々の髪が細かったからか。モルダー捜査官でも解決できない。Xファイル行き。
そんな、おりこうさんに育った髪が、
38年一緒に育ってきた髪が、
熟れに熟れて、
熟女どころか、おばあちゃんのように白くなり始めた。
今までにない本数で。ダイエットをして髪に栄養が行き届かなかったからか。寝る前に髪に話しかけてこなかったからか。シャンプーをやめて、安い牛乳石鹸でついでに頭も洗うようになってご機嫌斜めなのか。鼻毛はもっと白髪交じり。
光が当たると白髪はよく目立つ。あまり多くない髪の毛を抜くのにはかなりの抵抗がある。断腸の思いで白髪を抜き、若さを保とうとするも、髪の毛を減らしたショックで老けそうだ。