ゲームと共に歩んできた人生 その5
浪人生活、というのは大学に行く目標があり、何も後ろめたいものはなかった。しかし就職浪人、いわゆるフリーターは僕にとっては違う。罪悪感や劣等感が自分の中に芽生え、人と会うことに苦痛を感じるようになった。
派遣バイトに申込み、毎日単発で色んな仕事をした。ポスティングやハガキの仕分け、商品の製造ラインに入ったり、ダイエーでホークスセールの品出しをしたり。
僕以外、中国人しかいない工場もあった。面接の時は日本人が確かにいたはずなのに。そこでは、ひたすら海老の殻を剥く仕事で、時間経つのが遅く感じた。その他にもヤマト運輸、アプリのモニター、什器の搬入出などもやった。どれもきつかったけど、出来る人間でいたかった。社会的に価値のある人間でいたかった。だから120%の力で働いた。帰る頃にはクタクタである。
お昼は節約の為、自分でにぎったおにぎりを持参し、時間がないときはチョコスティックパン6本入りが100円だったので、よく買って食べていた。
ちなみに嫁は同じ派遣会社に登録していて知り合った。
毎日、仕事をしていたわけではない。週に1、2日は就職活動だってやっていた。当時はビーイングやとらばーゆなどの求人情報誌があり、それを買って読んでは、どの仕事にも興味を持てず、落ち込んでいた。
職安に行っては落ち込み、横浜にある、かながわ若者就職支援センターという出来立ての施設にも行ったが、やはり得るものはなかった。職安のキャリアコンサルタントに相談しては、根性が足りない、と怒られ、リクルートのような転職サイトのキャリアコンサルタントには、毎週募集しているような、ブラック企業ばかりを薦められた。
仕事をしない日はそうやって職探しをするが、午後には時間が余る。気まずかったが、家に引きこもり、なけなしのお金でネット回線を引き、ネットサーフィンをしたり、プレステ2をやっていた。
このころ夢中になっていたゲームは、ウイニングイレブンだ。オンライン対戦が楽しく、しょっちゅうやっていた。ADSL回線なので、ラグが出てイライラしながらも勝率は85%。めちゃくちゃ強かったと思う。
当時はACミランが強くて、ネスタ・スタム・カフー・マルディーニ・カカ・ピルロ・シェフチェンコ等々、いい選手がいっぱいいたんだ。なのでACミランばかり使っていたな。
対戦相手がADSLケーブルを抜き差し、要は不正をしてタイムラグが発生している間に点を取られたり、点を取った後のリプレイを省略しないでいつまでも流されたり、とムカついたときには、コントローラーを投げつけたり、ちょっと大声で叫んだりもした。1Fにいた親は、2Fから聞こえる、僕が出す音にイライラしていただろう。働きもしないで何をやっているんだ、と。
それでもゲームに没頭し、少しの間、現実逃避ができることは、当時の僕にとってありがたかった。チャット機能もあったから、横浜でキーボードを買って、返事がすぐできるようにした。
嫁と付き合いだしてからも、オンライン仲間からウイニングイレブン大会をやろう、と誘われ、デートを途中できりあげたこともある。すまん。
気持ち的に、立場的に、人と会いづらくなっていたので、交友関係は切ってしまった。だが唯一、高校時代からの友達がいた。そいつとは浪人時代も同じ塾に通い、大学入試も一緒に行った。就職先が関西方面になってからも、大型連休などの帰省時には、必ず遊んでいたんだ。
しかし、その友達から、まだ働いていないの!?と言われた時に、二度と会うのはやめよう、と決心する。
僕はどんどん追いつめられていった。