「自分の人生を歩く」 日々徒然日記

「自分の人生を歩く」 日々徒然日記

行ってみた、やってみた、食べてみた、見てみたことを書き連ねるブログ。主にアニメ・マンガ・ゲーム・観光地・外食の感想中心

ゲームと共に歩んできた人生 その8

元来、人に好かれるタイプでないことは重々承知している。生意気だし、屁理屈捏ねるし、愛想悪いし。承知していたからこそ、そうならないよう意識をしていた。

 

営業所内で僕は年齢・キャリア共に一番下っ端。最初は先輩達にめっちゃ厳しく接された。仕事は幼稚園・保育園へのルート営業だが、まずは先輩と同行して仕事ぶりを見させてもらう、ということになった。ただ、荷物の積みこみや運転は自分がやる。

 

僕はほぼほぼペーパードライバー。なのにハイエース。後ろには納品しなければならない大量の荷物。その荷物でフロントミラーから後ろが見えない・・・よってバックはサイドミラーを見ながら行う。うまく荷物を積まないと荷崩れをおこし、商品を傷める場合がある。その積み作業も僕の仕事だ。

 

かなりの体育会系の組織だったため、下っ端は早く来る必要がある。そうしないと怒られる。なので8時には営業所に着き、車に荷物を積み込んでいた。それだって、どのルートで回るかを考慮して積まないといけない。最初に行く幼稚園なのに、荷物が奥に入っているとすぐ取れないからだ。

 

最初はうまく運転できなくて怒られ、ビビッて慎重に走っても、荷崩れをおこして怒られる。慣れない仕事、土地勘のない場所。何度も道を間違え、その度に怒られた。

 

道は風景で覚えろ!と言われたが、全然頭に入らない。

 

散々だった。先輩はずっとムッとした表情。何度怒られたか数えられない。萎縮してはミスをする。このままではいけない。自分は価値ある存在になりたいんだ。

 

その思いから、22時ぐらいに帰宅しても、親の車を借り、地図を片手に営業ルートを何度も周りにいった。土日も彼女に付き添ってもらい、風景で覚えられないから、信号2つ目、とか信号の名称でどこに曲がるかを覚えた。次第に、自分がどのルートで行ったら効率いいか分かるようになってきたし、2週間ぐらいで営業ルートを自分で作れるようになる。

 

先輩の僕に対する態度は段々柔らかくなり、楽しい会話もできるようになった。認めてもらえたのだろうか。それに、ようやく仕事以外の時間は自分の時間に回せるようになる。彼女との同棲を決め、住み慣れた金沢区の街を離れ、海老名に引っ越した。営業職なのに残業代がでるし、いっぱい残業するのでお金はすぐたまった。

 

ケーブルテレビに入って、ナショナルジオグラフィックアニマルプラネットにはまる。めっちゃおもろい。

 

しばらくゲームはやっていなかった。僕が好きだったRPGは長くて、プレイすることがしんどくなってきたからだ。1年ぐらいはやっていなかったんじゃないと思う。

 

そして、彼女とのデート中、横浜駅で何となく取ったR25に、「ひぐらしのなく頃に」の特集が組まれていた。絵が衝撃的で、ストーリーも面白そうだ。僕はすぐに「ひぐらし」を買い、嫁がパソコンしている横で萌えキャラの会話をニヤニヤしながら進めていた。

 

クリアするまで80時間はかかっただろうか。でもめちゃくちゃ面白かった。次の展開がどうなるか気になって、ずっとゲームしてたな。ビジュアルノベルっていつでもゲームを辞めることができるので、僕にとってはありがたい。これをきっかけに、僕はビジュアルノベルゲームが好きだ、ということを認識するようになる。

 

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ゲームと共に歩んできた人生 その7

職安でたまたま条件のいい会社を見つけた。休みも土日だし、給料もそこそこいいし。でも営業職。ちょっと不安だったけど、やってみなくちゃわからない、といつものように自分を奮い立たせ、応募した。

 

のちに会社から電話がかかってきて、日時・場所を教えてもらった。苦手な職務経歴書を頑張って書き、東京にある本社へと向かった。とても緊張しているが、うまくいかなくても別にいいや、と緊張を和らげようと暗示をかける。

 

かなり前に到着してしまったのだが、時間をつぶし、5分前に会社へと入った。

 

「あの~、本日面接をさせていただく、〇〇です。」

 

「えっ!?面接?」

 

「??」

 

「ちょっと待ってて。」

 

応接間のような場所で5分ぐらい待つ。しばらくすると、初老のおじいちゃんみたいな人がにこやかに入ってきた。どうやら常務の人らしい。この時、常務という役職がどのくらい高いのか、まるで分っていなかった。

 

「んじゃ、面接するか。」

 

「はい、本日はよろしくお願いします!」

 

「でもね、君、今日の面接場所、本当はここじゃないよ。」

 

「!!!!!!!」

 

面接場所は本社ではなく、支社、つまり配属されたいと思った横浜営業所で行うはずだったらしい。そんな話、言ってた覚え全然ないんだけどな。。。確かに言ったと言われ、押し問答になるのも嫌だし、印象を悪くしたくない。今さらだけど。

 

今日、横浜営業所では20名程面接をするらしく、僕だけ違う場所。完全に落ちた、と思った。なごやかに常務と話をする。緊張したけど、ちょっと諦め入っていたから、変な度胸がついていた。応募動機とか今までやっていたこととか、一生懸命話す。

 

20分ぐらい話して、後で採用結果出すから、と常務は話し、僕は会社を後にした。この時点で僕は次だ次!と完全に切り替えていた。いや、後悔もしていた。何できちんと確認しておかなかったんだろう。絶対に受からないな、これは。

 

そしたらね、何故か受かったw

 

営業所長はどうやら他の面接者が気に食わなかったらしく、そこで常務が面接場所を間違える馬鹿がいる、面白そうだと思って面接したら、結構気に入った、ということらしい。

 

でも本来、1次面接の合否を決めるのは営業所長らしいので、1日まるっと所長の営業に同行し、それで判断する、ということだった。要は2次面接、ということになる。それが受かれば、社長と面接して最終決断が下される。

 

メッチャ緊張した。とにかく返事はハキハキしよう。行動はキビキビしよう。笑顔を忘れるな!それだけは心掛けた。

 

そしたら、気に入られたw

 

心掛けていたことがハマったわけではなく、所長は僕と同じ金沢区出身だったんだ。高校どこか聞かれて、答えたら、すごいじゃないか!!と褒められた。それがものすごい効いてて、後の会話がスムーズにいったんだ。

 

「おまえ、気に入ったから採用してやる」

 

「ありがとうございます!」

 

多少、営業先で所長に怒られたが、全体を通しては問題なかったようで、最終面接へと進むことになった。いや、本当に縁ってどこにあるか分からないものだ。

 

最終面接は本社。きちんと確認したw

 

担当者である社長は正直、ボーッとしたような、物静かな人だったが、3分程の会話だけで合格をもらえた。えっ!?それでいいの!?

 

晴れて、僕は人生初の正社員となったのである。

 

この時、僕は26歳になっていた。

 

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ゲームと共に歩んできた人生 その6

働きたいけど、何をしたいか分からなくて前に進めない、職種リサーチをしたり、会社説明会で話を聞いても、ホームページを見ても、興味が湧かない。こんな状態を理解してくれとは言わないが、そういう人間もいるものだ。

 

もちろん、周りから見ると、ただただ根性なしだとか、遊んでいるように見えただろう。気晴らしにウイニングイレブンに没頭したり、フリースタイルのリフティングを練習したり。

 

何をやっても心の片隅では、働けていない、社会に置いてかれている、惨め、孤独だ、などの声が聞こえてくる。全部自分が作り出したものだが。何をやっていても心の底から楽しめることはなかった。

 

一度、無理やりにでも働いてみよう、そこから考えてみよう、とプログラミングの会社に応募した。1か月の試用期間があり、その間にC言語を使った課題をクリアすれば、正社員として雇ってもらえる。

 

会社に来て課題をやってもいいし、家でやってもいい、ということだったので、自宅でやることにした。これは正直、間違いだったと思う。孤独を感じ、プログラミングに面白みを感じない。アルゴリズムについて、誰にも相談できず、ずっと一人で悩み続けた。30日どころか、15日で課題は終わらせることはできたが、課題を持って行った翌日、僕は会社をずる休みをした。

 

その日は電話で一報を入れたが、その次の日からは無断欠勤を3日程続けた。このままではいけない。もう心の中では辞めることを決心していたが、会社に行くことを体が拒否する。何とか自分を奮い立たせ、社長にひたすら平謝りをして、僕はまた無職になった。

 

人間、しんどい時は現実逃避をしたくなる。このころになると、大学の奨学金を毎月2万ずつ返済しなければいけなかった。お金のない僕は、中古ゲームショップでプレステ2ではなく、もっと安く買えるプレステのソフトを買い漁っていた。

 

MOONとかいう知る人ぞ知るRPGをやったり、神宮寺三郎シリーズにハマったり。仕事では興味をもてない、なんて状態になるのに、ゲームではこれやってみたい、なんてのがちゃんと出てくる。不思議なものだ。ゲームに感化されて探偵になろうかな、なんて考えたこともある。

 

あと、兄貴の部屋にやるドラシリーズ第一作のダブルキャストがあって、こっそりやってみた。そしたら面白くてね、「季節を抱きしめて」と「サンパギータ」も買っちゃった。「雪割りの花」だけは絵柄が気に入らなくて買わなかったが。

 

やるドラシリーズは弟切草とかと同じ、文章を読んで選択肢を選んでいく形式だ。ちょっと違うのは絵があること、そしてその絵がアニメーションみたいに動く。当時は画期的で、アニメを見ているようで感動したんだ。そして選択肢を間違えるとすぐ主人公が死ぬw

 

シナリオボリュームも10時間ぐらいでクリアできるので、気軽にやれるのも、当時の自分には合っていた。あんまり長いゲームだと、早く就職活動しなくては、という焦りが出てくるから。

 

試用期間中でも正社員に向けて前進してた時は、劣等感は感じずに済んでたが、また無職というかフリーターに戻ると、劣等感を感じるようになっていた。

 

そして派遣スタッフへと戻ってきてしまった。もう戻らないぞ!と思ってたのに。悲しくなってくる。今思うと、派遣で働く分にはどんなジャンルでも断ることなんてないのに、正社員としては、選びに選んでいた。正社員に理想を求めすぎていたのだろう。そして青い鳥症候群に陥っていることに気付けない。

 

1年ぐらい続けたが、やはり心の中では正社員にならなくては、という焦りが募っていた。周りから置いてかれている、という劣等感は常にある。さらに僕の彼女は6歳年上だ。結婚の事を考える。なのに動けない。週1で職安に行き、就職情報誌を漁る、しかし興味はわかない。

 

ジェイックって会社で営業のセミナーというか、営業体験の説明会に行ったこともある。営業は向かないと本能的に感じていたが、やってみなくては分からないじゃないか、と自分を奮い立たせて行ってみた。

 

しかし、練習で飛び込み営業をするって話を聞いているうちに怖気づいてしまい、結局断念した。

 

こうなる時点で、営業なんて向かないのに、僕は正社員になることに焦り、またもや自分を奮い立たせ、条件の良かった営業職に応募する。

 

そして、奇跡的に受かってしまったんだ。

 

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ゲームと共に歩んできた人生 その5

浪人生活、というのは大学に行く目標があり、何も後ろめたいものはなかった。しかし就職浪人、いわゆるフリーターは僕にとっては違う。罪悪感や劣等感が自分の中に芽生え、人と会うことに苦痛を感じるようになった。

 

派遣バイトに申込み、毎日単発で色んな仕事をした。ポスティングやハガキの仕分け、商品の製造ラインに入ったり、ダイエーでホークスセールの品出しをしたり。

 

僕以外、中国人しかいない工場もあった。面接の時は日本人が確かにいたはずなのに。そこでは、ひたすら海老の殻を剥く仕事で、時間経つのが遅く感じた。その他にもヤマト運輸、アプリのモニター、什器の搬入出などもやった。どれもきつかったけど、出来る人間でいたかった。社会的に価値のある人間でいたかった。だから120%の力で働いた。帰る頃にはクタクタである。

 

お昼は節約の為、自分でにぎったおにぎりを持参し、時間がないときはチョコスティックパン6本入りが100円だったので、よく買って食べていた。

 

ちなみに嫁は同じ派遣会社に登録していて知り合った。

 

毎日、仕事をしていたわけではない。週に1、2日は就職活動だってやっていた。当時はビーイングとらばーゆなどの求人情報誌があり、それを買って読んでは、どの仕事にも興味を持てず、落ち込んでいた。

 

職安に行っては落ち込み、横浜にある、かながわ若者就職支援センターという出来立ての施設にも行ったが、やはり得るものはなかった。職安のキャリアコンサルタントに相談しては、根性が足りない、と怒られ、リクルートのような転職サイトのキャリアコンサルタントには、毎週募集しているような、ブラック企業ばかりを薦められた。

 

仕事をしない日はそうやって職探しをするが、午後には時間が余る。気まずかったが、家に引きこもり、なけなしのお金でネット回線を引き、ネットサーフィンをしたり、プレステ2をやっていた。

 

このころ夢中になっていたゲームは、ウイニングイレブンだ。オンライン対戦が楽しく、しょっちゅうやっていた。ADSL回線なので、ラグが出てイライラしながらも勝率は85%。めちゃくちゃ強かったと思う。

 

当時はACミランが強くて、ネスタ・スタム・カフーマルディーニ・カカ・ピルロシェフチェンコ等々、いい選手がいっぱいいたんだ。なのでACミランばかり使っていたな。

 

対戦相手がADSLケーブルを抜き差し、要は不正をしてタイムラグが発生している間に点を取られたり、点を取った後のリプレイを省略しないでいつまでも流されたり、とムカついたときには、コントローラーを投げつけたり、ちょっと大声で叫んだりもした。1Fにいた親は、2Fから聞こえる、僕が出す音にイライラしていただろう。働きもしないで何をやっているんだ、と。

 

それでもゲームに没頭し、少しの間、現実逃避ができることは、当時の僕にとってありがたかった。チャット機能もあったから、横浜でキーボードを買って、返事がすぐできるようにした。

 

嫁と付き合いだしてからも、オンライン仲間からウイニングイレブン大会をやろう、と誘われ、デートを途中できりあげたこともある。すまん。

 

気持ち的に、立場的に、人と会いづらくなっていたので、交友関係は切ってしまった。だが唯一、高校時代からの友達がいた。そいつとは浪人時代も同じ塾に通い、大学入試も一緒に行った。就職先が関西方面になってからも、大型連休などの帰省時には、必ず遊んでいたんだ。

 

しかし、その友達から、まだ働いていないの!?と言われた時に、二度と会うのはやめよう、と決心する。

 

僕はどんどん追いつめられていった。

 

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ゲームと共に歩んできた人生 その4

大学に入って、何とか友達が出来た。4人グループでご飯を食べに行ったり、ゲーセンいったり。しかし2年になって、一人が大学にこなくなる。3年になり、もう一人は必須科目を落としてしまい、留年し、その後に退学する。

 

僕と、僕と同じ苗字の友達2人でいたが、大学4年のあることをきっかけに仲違い。というか、僕が完全に見限ってしまった。彼は卒業式で名前を呼ばれていたが、姿を現すことはなかった。

 

大学3年の後半になると、卒業研究の為に、どこの研究室に入るのか決めることになる。僕は人気があった教授の研究室に運よく入ることが出来た。

 

院生や同級生と全く打ち解けることができなかったが、とあることをきっかけに、仲良くなれた。卒業研究をしなければならないが、家から大学までは遠く、バイトもある。なので、よく泊りがけで卒研のプログラム(プログラミング専攻だった)を書いて、朝方まで仮眠して、バイトの為に地元に戻る、という生活を送っていた。

 

研究室に泊まる同級生が多く、夜中にみんなでコンビニ行ったり、ネットゲームをやったり、馬鹿話をして過ごす日々。暇な時も、その研究室に行けば誰かしらいるので、フラれて傷心の時には気が紛れた。院生の知り合いの女性達と、最初で最後の合コンをしたこともある。みんな、すべからくブスだった。

 

卒業までこの仲間に助けられ、大学生活を楽しく過ごすことができた。一方、就職活動はというと、企業説明会に行って話を聞いても全く興味が湧かない。10社ぐらいは説明会に行ったし、1次面接に受かったところもある。

 

でも結局、その先が続かなかった。

 

面倒になって2次面接にも行かなかったし、就職活動をやる気になれない。途中からは、来年自分はフリーターになるんだな、と漠然と思うようになった。そしてそれは現実になる。

 

正直、人生で一番後悔しているのはいつか?と聞かれたら、真っ先に大学時代をあげるだろう。もっとこうしておけばよかった、と思えることがいっぱいある。ただ、最後の1年、研究室にいた時間だけは良い思い出だったのが唯一の救いだ。

 

そして僕はフリーターになった。

 

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ゲームと共に歩んできた人生 その3

僕が進路というか、将来のことについて考えるようになったのは、高校3年の1月ぐらいだったと思う。親には就職しろ!公務員になれ!とさんざん言われた。

 

僕は働きたくなかった。

 

だから大学に行こうと思った。やりたいこともなかったし、大学に行けば考える猶予がもらえる、と思ったからだ。モラトリアムというやつである。

 

仲のいい友達とは卒業旅行に京都に行った。ついでに秘〇館にも行った。さらに自分のクラスではやっぱり秘〇館に行った。女子もついてきた。みんな飢えているのである。

 

浪人生活に突入してからは、ゲームを一切絶った。一度やったらハマってしまう。ずーっと我慢してたんだけどね、親に大学行く金なんてない、就職しろ!って入試直前の12月ぐらいかな、言われてめっちゃやる気なくなった。

 

結局、最終的には奨学金を毎月10万、4年間借りて何とか大学に行けることになったのだけれど、勉強のやる気スイッチは母親の剣幕と共に、どこかへ飛んで行ってしまった。

 

だからゲームやっちゃった。

 

一度やったら、ハマるハマる。プレステのテイルズシリーズが面白くって、デスティニーやファンタジアを連続でクリアしたよね。50時間ぐらいかかったかな。

 

塾ってチューターという、担任のような人が一人一人についてたんだけど、僕はチューターに合わないように、こっそり逃げ帰ってた。気まずかったから。

 

入試の結果はというと、散々である。

 

現役時代に実は1つだけ大学受かっていたんだけど、そことほぼ同等偏差値の大学とちょっと上の大学2つ。あんま大差ない。

 

でも入試を受けに行ったとき、とっても校舎がきれいで金もかかってそうな、とある大学に魅力を感じ、そこに決めた。家から2時間かかる距離。今思えば、よく通ったと思う。

 

大学でも平日は友達の家に上がり込み、やはりゲーム。当時はドリキャスが流行っていたからソウルキャリバーとかやってた。でも一番ハマっていたのはゲーセンにあった、ポップンミュージック

 

俗にいう、音ゲーってやつ。友達とハマりにハマってね、毎日のように大学近くのゲーセン行って、瞬きもしないでバチバチ ボタンを叩いていた。めっちゃ疲れるの。でも落下してくるポップンが見えるようになる瞬間が楽しくてね、夜9時過ぎに家から5駅離れたところのゲーセンいって、深夜までやってたこともある。

 

全部の曲がクリアできるようになった頃は、ビートマニアの”V”って曲を初見でクリアできた。初めてのビートマニアだったけど、落ちる鍵盤?がゆっくり見えるのね。さっき久しぶりにYoutubeで見てきたけど、落ちる鍵盤、全然見えないw よくやってたな。。。

 

この頃は音ゲーがブームで、ポップンミュージックビートマニアギターフリークスドラムマニアだっけ?これらが結構人気あった。ドラムマニア、難くてね、天体観測のイントロで終了してた。

 

大学3年にもなると、必須科目も減り、固定バイトをやる時間ができた。先程のゲーセンと同じ駅にある、ダイナミック ダイクマで3年働いた。社長は大熊さんらしい。ちなみに大学院には行ってない。僕がバイトだった頃、ダイナミックにヤマダ電機に吸収されてしまった・・・

 

稼いだお金で車の免許を取ったり、原付を買ったり、好きな子にフラれたり。周りが就職活動を始めていたが、自分は就職のことなんて考えたくもなく、バイトとゲームと漫画に明け暮れていた。

 

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ゲームと共に歩んできた人生 その2

高校に入ると、プレステとセガサターンに夢中となった。DTの僕はギャルゲーに手を染め始める。

 

・同級生

・下級生

・野々村病院の人々

・慟哭

Yu-noこの世の果てで恋を唄う少女

Eve burst error

・DESIRE

御神楽少女探偵団

ときめきメモリアル

・黒の断章

などなど

 

ほとんどがセガサターン作品だ。あの頃のセガは熱かった。FF7が出るまではプレステよりも人気があったのではないか。名作揃いである。

 

30代に入ってからはビジュアルノベルばかりやっているが、そのきっかけとなった作品が「Yu-no」。難解なシステムだったが70時間ぐらいかけて地下洞窟にあるパズルまで辿り着き、そこで挫折した。大学生になって攻略本を買ってからようやく先に進められた。100時間ぐらいかけて異世界編に突入。まだシナリオがあるのかと、そのボリュームの多さと、面白さに圧倒された。今でも僕の好きな作品1位である。

 

Eve burst errorも捨てがたい。小次郎編とまりな編がそれぞれ別ディスクになっていて、物語が進展しなければ、Discを交換して別サイトから進めるシステムが斬新だった。なつかしい。

 

その他にも

・LUNAR シルバースターストーリー

グランディア

デビルサマナー ~ソウルハッカーズ

などのRPGも面白かった。特にグランディアは最高の一言である。スーを置いて旅立つシーンは今でも悲しさと共に覚えている。

 

高校時代は友達と遊ぶこと、軽音楽部に入ってからはギターを弾くこと、そしてゲーム三昧であった。3年にもなると、みんな塾に行き始めたり、進路のことを考えたりするが、そんななか、学校近くのゲーセンで脱衣麻雀に明け暮れていた僕は、もちろん大学に受かるはずもなく、浪人生活を送ることになった。

 

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