効率を考えないことが人生の充実につながるのではないか?
以前、効率化をすることの弊害を投稿した。効率よりも先に考えるのは効果であって、効率は後に考えればいいと理解できたのだが、なかなかこれが難しい。
日常のなかで気を抜くと、いつの間にか効率的に動こうとしている自分に気付く。例えばお風呂。浴槽で何も考えずにいると、ただただお湯が暖かくて気持ちいい、というのが実感できる。
でも気が付くと次何しようとか考えてる。
そうすると、お風呂に入っているのはただの作業となり、湯船につかることでの気持ちよさは感じなくなってしまう。
「あ、やだな」と思って、思考を切るのだが、それを何度繰り返すことか。今までの習慣がなかなか抜けないのである。
お皿を洗っているときもそう。お皿洗う時間にゆとりをもって、のんびり洗っていると、ガンコな汚れがついている食器や鍋など、どうやったらきれいにできるのか、ネットで探そう、とか思える。
重曹やらクエン酸、お酢を使って磨くといいなんて情報も得て、実際きれいになった食器を見るとうれしいものだ。
しかし時間がない人間にとっては、お皿洗いはただの無味乾燥な作業に変わる。苦痛でしょうがない。早く終わってほしいとさらに焦る。結果、ストレスがたまる。
こんな気持ちになるのは俺だけ?
現代人は常に時間に追われているとよく聞くが、自分も多分に漏れずそう。時間がないと思ってしまう。
通勤時間も短く、残業も少ない自分でも時間がないと感じる。何故だろうか?
きっと、仕事が楽しいと思えないから、明日になったら仕事がやってきてしまう、そう思って焦っているのかもしれない。
きっと~とか、~かもしれない、という言葉を使っているように、自分でもきちんと気持ちがつかめていない。
自分の気持ちが分かっている部分では、その日にやりたいことを、できるだけ多く詰め込みたいと思っている。達成した数を振り返って、満足感を得ようとしているのだ。
そうすると、一つ一つの楽しいことが段々とノルマに感じてくる。
ブログだって、例えば1500文字ぐらい書こう、そして30分で終わらせるように効率よく書こう、という風に考えると、段々と書くのが苦痛になってくる。
書くのがノルマになってくるのだ。
それではせっかく楽しかった趣味が嫌いになってしまいかねない。
だから、スケジュールにゆとりをもって、それに何時間だってつぎ込んだっていい、と思うようにしている。
毎日書かなくたっていい。文字数だって気にしなくていい。
書けないと思ったら、下書き保存して気が向いたら書けばいい。必ず記事を一度で書き上げる必要はない。別の記事を書きたいと思ったら、そっちを書けばいい。
こんな感じで制限を解いてやると、時間を気にせずのんびり楽しくブログを書けている自分がいる。ブログを書くという行為に負担を感じなくなる。
ブログ以外でも同様の事をする=制限をとくと、最初に思った楽しいという気持ちが持続するのではないか。
しばらく検証をしてみよう。